フマキラー『アレルシャット』がすごい!

こんばんは。

今日はいつもと全く違うジャンルのお話です。

内容はタイトルそのまま、ひたすら「『アレルシャット』がすごい」という話です。

 

「ああ花粉症の話か」と思い、関係ないから読むのをやめようと思った非花粉症(こんな言葉があるかは知りません。笑)のあなた!!にもぜひ読んで欲しいのです。

 

どんなあなたかというと、「玉ねぎを切ると泣いてしまう」あなたです。

玉ねぎのみじん切りに、いやただのざく切りでさえ、苦労した経験はありませんか?

そんなあなたにも朗報です!ということで今回書こうと思いました。

 

フマキラーさんも当然、花粉をブロックするという効果を売りに商品を販売していますし、それを目的に消費者も購入しています。

だからもちろん、花粉をブロックする効果が本当にあるということを伝えるのも有効ですが、それに加えて「販売者までもが予想しなかった効果」をお伝えできれば、めちゃくちゃ社会に貢献できるのではないか!と思った次第です。

 

まず、花粉をブロックする効果について。

あります。効果あります。私は思いっきり花粉症で、2月終わりから最近までの時期が最も苦しめられます。

それにもかかわらず、そんなことを忘れて、球場での売り子バイトを始めてしまった私は猛烈に後悔しました。

マスクせずに!あんな晴天のもとで!1日中!大声を出し続ける!とは!!

まさに自殺行為ではないかと。

それを初日に気づいたわけですから、初日は悲惨でした。売りながらしょっちゅう鼻をかみ、目がかゆすぎてコンタクトはズレてくる。バイトを終えて帰宅してからも、鼻水・目のかゆみ・喉のかゆみ・頭痛、、と花粉症の症状フルコースでした。

 

そこで、このアレルシャットを思い出し、活用したのです。

実は前から使っていたので初日も使用してはいたのですが、朝家を出る時に使っただけでした。それでは汗で落ちてしまい、全く意味がありません。

 

なので2日目から売り子中にも持ち歩き2時間置きにスプレーし直しました。

すると!

バイト中には全く症状が出なくなりました。帰宅してからの症状は少し残りましたが、かなり軽減されましたし、元がひどすぎたので十分な効果だと感じています!

 

やはり、こまめにスプレーし直すことできちんと効果が得られます。

 

ちなみに、鼻に塗るタイプも使ったことはあるのですが、効果が出る前に鼻水が出て鼻をかんでしまうので、私には意味がありませんでした。

 

 

次に、副次効果:玉ねぎを切っても泣かなくなる についてです。

これは、アレルシャットを使った日の夜に玉ねぎを切っていた時、ノリノリで歌を口ずさんでいたのですが、全く泣かなかったのです。いつもはボロボロと泣いてしまう私なので、途中でハッとしましたが、心配無用でした。この時、「もしかしてアレルシャットのおかげ…?」と思い始めました。

 

そして数日後、また玉ねぎを切っていたら今度は号泣でした!全メイが泣いた!

そして気づいたのです。その日は家にこもっていたのでアレルシャットしていないと。この時「もしかしてやっぱりアレルシャットのおかげ…?」と思いました。

 

それ以来、アレルシャットをしている日に玉ねぎを何回か切りましたが泣くことはありませんでした。

 

そして確信を得たのは先日。母に試してもらったのです。

私の母も玉ねぎ号泣族です。しかし花粉症ではないのでアレルシャットは使用していません。

その母が玉ねぎを切っていて、泣き始めていたので私はアレルシャットを思い出し、急いでスプレーしました。すると、それ以降は母の涙が止まり、私と話しながらノリノリで玉ねぎをみじん切りできたのです!!

 

 

これはもう確信しました。アレルシャットには、玉ねぎの泣かせる成分を防ぐ効果もある。

フマキラーさん、ぜひこれも売り文句にしてみてはいかがでしょうか。いえ、こんな上から目線の発言をしている場合ではありません。

フマキラーさんのおかげで大好きな玉ねぎを思う存分みじん切りできるようになりました。本当にありがとうございます。

 

 

ということで本日は以上です。

アレルシャット』は花粉をブロックする効果と、玉ねぎの泣かせる成分をブロックする効果まで併せ持つ、というお話でした。

フマキラーさんに届くといいな…

アレルシャット 花粉イオンでブロック 160回分

アレルシャット 花粉イオンでブロック 160回分

 

 

 

もし3億円当たったら

こんばんは。

お久しぶりです。

忙しいと言い訳をしながらダラダラしていて、時間がありませんでした。(汗)

書きたいことはいろいろあるんですけどね!気づいたら時間がなくなっています…

 

 

今日は、「もし3億円当たったら」という、一見すると小学生の妄想のようなタイトルですが(笑)、私はわりと真面目な時にこれを考えます。

将来について考える時です!

 

 

私は大学生ですが、将来について全く決まっていません。

(将来といっても、メインは就職の話になりますが。)

興味があることが散漫としていて、未来が予測不可能で、本当にやりたいことがわからないからです。

つまりは、何もわからない!!!

 

では就職について考える時、順を追ってロジカルに考えるとしたら、どうなるか。

まずは「そもそも働きたいのか、働きたくないのか」です。

「就職について考える→どの職業?」という思考回路に陥りがちですが、それはそもそも自分が「働きたいと思っている」こと、または「働きたくないと思ってるけど働かざるを得ないと思っている」ことを前提としていますよね。

もし、働きたくないと思ったなら、まずは働かずに生きていく方法を考えるべきだと思います。(人生観というよりは思考順序的に)

1番に考えなくてはならないのは、お金ですよね。お金。絶対的に必要なお金を、どうやって得るのか。

例えば、玉の輿を狙うとか、自給自足をするとか、タイトルのように3億円を狙って宝くじを買うとか、、です。笑

 

まあ、ロジカルに考えるなら、ここからスタートするということです。

それで、私は「働きたい」と思いました。

 

では、どんな風に働きたいのか。働く上で重視するポイントってありますよね。

人の役に立ちたい、自己実現をしたい、達成感を味わいたい、、あたりって、わりと誰でも思うと思います。

誰でも思うことって、程度によっぽどの差がない限り、自己分析において大した発見ではないんですよね。

 

では、その中で私がちょっと独自かもしれないと思ったのは「高収入を得たい」です。

いや、別に珍しくないだろー!って思いますよね、すみません。

そこまでだとわりと多いと思います。そりゃ、どうせ働くなら収入は高い方がいい。ありふれた考えです。

 

でも「高収入を得たい」の中にも、2種類あると思っていて、それを分類するのが「もし3億円当たったら」です。

もし3億円当たったら、高収入を職業選択の基準から外すのは、「使うためのお金が欲しい」人。

もし3億円当たっても、高収入にこだわるのは、「ステータスとしての収入が欲しい」人。

どちらもイメージつきますかね?

前者は、「3億あって(もし3億で足りないなら10億とかでもいいんですけど。笑)、別に稼がなくても生活には困らない(or 満足に贅沢して暮らしていける)から、お金にはならないけど好きなことやって生きていこう」と考える人。

後者は、「3億あって(以下同文)、別に稼がなくても生活には困らない(以下同文)けど、働くからには稼ぎたい」と考える人。

どちらが良いとも悪いとも、どちらも良いとも悪いとも言っていません。

ただの、分類です。

 

そして私は、後者なんです。

私は「ステータスとしての高収入が欲しいんだ!!」と自分の欲望に初めて気づいたわけです。あまり自覚してなかったのに、名誉欲が強いんだと気づかされました。

先程と同様、これ自体は良いとも悪いとも思いません。

 

そういう問題よりも、それを自分で理解しておく、ということが必要だと思いました。

なかなか見えなかった自分の価値観。そのうちの1カケラでしかないですが、部分的にでも、見えました。

だから私はこの基準を意識して、将来を考えていこうと思います。

 

少しまとめると、

働く理由を考えた時に「役に立つ・自己実現 etc.」では多くの人と同じで特徴にならない

→少し人数の減るであろう「高収入」に着目(それでもまだ多い)

→「3億円当たったら」という仮説を置いて、それでも高収入が欲しいと考えることにより、「使うためのお金が欲しい」のではなく「ステータスとしてのお金が欲しい」から高収入を求める、というある程度の少数まで分類された

 

という流れです。

 

 

以上、ざっくりまとめると「3億円当たっても私は高収入を得るために働きたい」という発想から、「どんな状況だったら自分は働くか、この状況下なら何の為に働くか」という風に少々ぶっ飛んでいる仮説を置いて考えてみると、自分の職業選択における基準が少しずつ見えてくるのでは、というお話でした。

多くの人と同じ基準じゃダメ、ということではなく、それでは自分の価値観は見えてこないと思うので、自分ならでは(までは行かずとも、自分とある一定数の人ならでは)の基準を探してみると面白いですよね、ということです!

 

それでは!

みなさん素敵なGWを!

 

「好きに理由は要らない」けど、考えてみると面白い

こんばんは。

ちょくちょくアクセスが増えていて、嬉しくもあり緊張もあり、という状況ですが、やはりモチベーションは上がりますよね!(単純)

 

今日は、ザ・恋愛みたいなタイトルですが、そうでもないです(笑)

元ネタは恋愛ですが、そこから派生していったお話です。

 

 

「好きに理由は要らない」は、どうなんですかね?理由があるのが正しい・ないのが正しいとかは全くわからないし、決めるべきことでもないと思います。だって、好きになっちゃったんだから(笑)

人であれ、モノであれ、コトであれ。

 

でも私は、放っておくと理由を探してしまい、見つからないと不安になります。

恋愛としての人もそうだし、友達としての人も、趣味もです。

でも、特に恋愛に関しては、ドラマ見たり小説読んだりしていて、明確に理由がある時の方が少ないなあと気づきました!

雰囲気じゃん!流れじゃん!成り行きじゃん!!みたいな。

 

だからといって、その気持ちが本当じゃないとか軽いとか、そうではないと思うんです。

理由ははっきりわからないけど、なんか好き。

そう思える何かこそが、”好き”ということなのかなと思ってます。

 

逆に、理由が明確に述べられるから、好きな箇所をたくさん挙げられるから、”好き”の気持ちが本物じゃない、ということでもないと思います。

ここで言いたいのは、自分が好きだと思ったものに対して、明確な理由が見つけられなくても「本当は好きじゃないのかな」と不安になる必要はない、ということです。

 

 

では一方で、タイトルの続き部分です。

ちょっと矛盾してるみたいに聞こえそうな続きです。

なんなんでしょうね、私は一見すると矛盾してそう、みたいなことを考えるのが好きなんですかね(笑)

 

これは、好きだと思ったものに対して、「なんで私はこれが好きなんだろう」と考えてみると面白いということです。

これについては好きなものだけでなく、嫌いなものも同様です。

 

きっかけは、為末大さんの「問題が存在していること以上に、なぜ自分がそのことを問題だと思うか、を考えるのが大切」というような考えを聞いたことです。(要約が下手ですみません)

問題を問題であると認識するのには価値観が関わっていると。

それが良い悪いということではなくて、そうであるからこそ、なぜそれを問題だと認識するかを考えてみることで、自分の価値観がわかってくるということだと思います。

 

それと同じ原理で、何かのことを「好き」「嫌い」と感じるのは、自分なりの基準があるからです。特に「嫌い」と感じることは良くないことだと思いがちですが、仕方ないと思います。だって、嫌いになっちゃったんだから(笑)

 

いや、真面目な話、そうだと思うんですよね。他人から「嫌いになるな」って言われても、感情をコントロールできるわけがないし、それでたとえ「誰のことも・何のことも嫌いになってない」と思っている人がいたとしても、それって自分でそう思わせてるだけですから。感情は所詮コントロールできないのが自然だと思います。

(話は逸れますが)嫌いになることがいけないのではなくて、嫌いになった人・モノに対しての態度の問題だと思います。

誰かのことを嫌いだからといって、その人をいじめていいわけではないし、これからも交流のある人なら露骨に表現するのは自分にとっても不利益だし。という話だと思います。

 

(話を戻して)だから、「好き」も「嫌い」も自分の感情を素直に認めて、その理由を考えてみましょうということです。

最近ではよく、「自分探し」に夢中になったり、就活といえば「自己分析」だったり、みんな自分がわからなくなってきていて、自分を見つけたいと思っているんですよね。

私もそうです。

私って何なんだーーーーーー!

私ってどういう人なんだーーーーーーーーー!

って思いっきり叫んで神様に答えてほしい、みたいに思うこともあります(雑)

 

でも、それって突然考えてパッとわかるものではなくて、普段から自分と向き合っているとだんだん、ちょっとずつ、本当に少しずつわかってくるものかなと思ってます。

その1つの手段としての、これです。好き・嫌いの理由を考えてみる。

1つの対象だけでは何もわからないです。好き・嫌いと思った対象に対していつもいつも考えてみる。そうすると、ぼんやりと傾向が見えてきます。

 

そして、それがわかれば、好きなものを見つけられる確率や嫌いなものを避けられる確率が上がると思います。もちろん、ぼんやりとなので、あくまで確率レベルでの話ですが。

好きも嫌いもコントロールできないなら、その対処をうまくして幸せに生きたいですよね!

 

 

以上、好きだと思う明確な理由を挙げられなくても不安になる必要はないけど、

好き・嫌いだと思う理由を考えてみると自分が見えてくる気がする。

というお話でした!

 

それでは!

自虐キャラと自己肯定感の高さは両立し得る

こんばんは。

宣言通り(?)約1週間ぶりの投稿です。

まあ、時間がある時に思いついたこと(or前から考えていたこと)を書こう、くらいの感覚でやっているので全く問題ないです。笑

 

両立し得るシリーズ第2弾、自虐と自己肯定感についてです。

 

自虐ネタについて、皆さんはどう思われますか?

「反応に困る」「こっちまで悲しくなる」「かまちょ」など、否定的な意見を聞くこともわりとあります。

私も、人の自虐を聞いてそう思うこともありますが、自虐ネタについて一概にそうとは言えないなあ、という感じです。

本当に、心から、面白いと思う自虐もたくさんあります。ツイッターは特にそれが多いのかなとは思います。

 

そこで、面白い自虐と可哀想な自虐の違いは何かとしばらく考えていましたが、「自己肯定感」の高さによる違いだと気づきました。

だから、タイトルです!

つまり、「自虐と自己肯定感が両立する」どころか、「自己肯定感が高い人こそ自虐が面白い」んだと思ったわけです!!

 

 

快く「面白い」と思える自虐には、以下の2点が大切な気がします。

1つ目は、本当に自分も(欠点だと)思っているか。

自虐は自慢のカモフラージュだったりすることもあるわけです。相手に否定してもらうことが前提の自虐はそうですよね。

「私ブスだから〜(汗)」とか、「自分マジで頭悪いわ」とか、、想像に難くないと思いますが、これらは「そんなことないよ〜!」という言葉欲しさに言っていますよね。

これは、言っている本人はそう思っていないわけです。

だから聞いている方も薄々と(もしくはハッキリと)それを感じてしまい、腹が立ったり「かまちょ」だと感じたりするわけですよね。

 

自虐が面白い人は、本当に思っているんです。思っている通りに嘘偽りなく話すから、快いし面白いんだと思います。

 

 

2つ目は、(そんな欠点がある)自分を愛せるか、愛しているか。

これがつまりは自己肯定感が高いということなわけですが。

1つ目では、本当にそれを欠点だと思っているかどうかが大切だと言いましたが、今度は逆に、その欠点がある自分を、その欠点以外に魅力があると思っているかどうかが大切だ、ということです。

 

これがない人、つまり自己肯定感が低い人は、自虐している(欠点と見せかけている)点が、実は唯一の自信がある点なんだと思います。

 

2つに分けておいて結局つながっているんですけど…

2つ目の自己肯定感という条件が十分に満たされているからこそ、安心して欠点を欠点だと笑い飛ばせる、ということです。

 

 

だから、自虐ネタをする人が一概に自己肯定感が低いわけではないし、面白いと感じられる自虐をしている人は、自己肯定感が高い人なのでは?ということです。

 

これは、自虐だけでなく他虐、つまり他人のイジリにも通じますよね。

他人イジリに対しても、不快に思うという人はいるかと思いますが、相手のことを認めている、好きだ、という前提があってのイジリは私は好きです。

「愛のあるイジリ」という言葉もよく聞きますが、本当にそうだと思います。

 

 

それで、だから何が言いたいんだ、というところですが、

自分でも他人でも、「心から好きだ」と、「こんな欠点があるけど、それでも愛せる」と、思えない対象をイジるのはやめませんか?というお話です。

それはいじめに近づくからです。イジる側もイジられる側も(自虐だったら両方とも自分!)、見ている側も悲しくなります。

 

文で書くと当たり前なことに感じられよね(笑)わざわざ書くまでもない(笑)

特に、他人イジリに対してはそうだと思います。

でも、自虐も同じ構造だ、というのは一見すると気づきにくいかなと思います。

 

 

以上、自虐が上手い人は自己肯定感が高いという話と、自虐他虐ともに、対象を愛せないならイジるのをやめませんか?という話でした!

 

それでは!私は今日も自虐ワールド(ツイッター)へ行ってきます!

 

 

 

袖振り合うも多生の縁

こんばんは。

実はまだアクセス数ゼロなわけですが、健気に3日目、続けます。

明日から忙しくなり、書けるかわからないというのもあるので。

 

今日は私の座右の銘をご紹介します。

タイトルの通り「袖振り合うも多生の縁」です。

これは、「人との出会いはすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならない」ということです。

 

出会いの大切さというと、「一期一会」という言葉を浮かべる方が多いかもしれません。でも私は、こちらの言葉(袖振り〜)の方が好きです。

どこが違うのかというと、「袖振り(以下これで行きますね、略してすみません。笑)」の方には、「どんな出会いも偶然ではなく因縁によって起こる」というニュアンスが加わっていることだと思います。

 

これと似た表現として、「人は、必要な時に必要な人と出会う」という言葉もあり、こちらも好きです。昔はこの言葉を座右の銘にしてましたが、「必要」という言葉がちょっと利己的に聞こえる(人を道具と捉えている、みたいにも思われかねない)ということと、私が好きだった高校時代の学年主任が、「袖振り」を学年通信のタイトルにしていたことから、こちらを座右の銘にしました。

 

つまり、私は様々な出会いは因縁であり、意味がある。出会うべく人に出会っている。そう思っていて、だからこそ誰かと出会ったからにはその人から何かを学びたい、その人といい思い出を共有したい、と思っています。

 

そして、私はこれを拡大解釈し、人との出会いだけでなくすべての出来事に当てはめて考えています。

何か嫌なことが起きた時。

取り返しのつかない失敗をした時。

 

もちろん、辛い出来事の真っ只中にいる時には、こんなことを考えている暇はありません。自分の努力不足で失敗してしまった時は、どうしようもないくらいに後悔します。

それは仕方がないことだと思います。

 

私もまだまだ短いといえば短い人生ですが、どうしようもないほどに後悔した経験はあります。そんな時には本当に、絶望的です。

 

しかし、時間が経ち振り返ってみると、

「あの経験があったからここまで来れた」

「(目指していた進路ではないが)実はこっちの道の方が向いていたのかもしれない」

という風に思えることがたくさんあります。

 

私はいつもそうでした。

だからこそ、どうしようもなく絶望的な状況でも、

「きっとこれは自分にとって必要な経験なんだ」

「この経験からいろんなことを学んでやるんだ」

という気持ちで対処できるようになりました。

こういう風に前を向けると、自分の失敗について反省はするものの、後悔はせずに済みます。

 

 

ただ、普段はこう思っている私でも、なかなか気持ちが切り換えられず、1つの失敗をずっとずっと後悔し続けてしまうことがありました。

これこそが、本当の挫折で、コンプレックスになるんだな、と実感した経験です。

この経験についても別の機会に書きたいと思います。

 

 

このように例外があるから、この考え方は役に立たない、ということではなく、普段からこういう考え方をしているから例外に気づけた。これが自分にとってよっぽど辛い経験だと気づけた。と思っています。

 

 

このブログを読んでくださっている方がいたら、その方と私も何か因縁があって出会っているわけです。

ぜひ、このブログとの出会いから何か(反面教師的な面ももちろん含みます)を学んでもらえたら嬉しいです!

(「座右の銘が長いと伝わりにくいから簡潔なものにしよう」(笑)とか、「鍵カッコを使いすぎると会話なのか考えなのか強調なのか、わかりにくいから、それぞれを分けて使おう」(笑)とか、そんな些細なことでも十分な「学び」だと思います)

 

 

この人と、この出来事と、自分との出会いは、なぜ起きたんだろう?何のために出会ったんだろう?

そんな風に物事を見てみると、何気ない日常も、とてもワクワクして過ごせます。

 

それでは!

話し上手と聞き上手は両立し得る

こんばんは。

マンションの隣の部屋からバイオリンの演奏が聴こえてくる優雅な中で、優雅な気分で書きたいと思います。(あれ、うちのマンションって楽器OKなのかな…あれ…?)

 

今日は、最近の発見を書きたいと思います。

タイトルの通り、「話し上手と聞き上手は両立し得る」ということです。

 

そんなの150年前から知ってるわ!という方はスルーしてください。

私は、深く考えたことが無かったものの、なんとなく、どちらか一方のような気がしていたので、ものすごい驚きでした!

 

きっかけは、友人の一言です。

「メイ(仮)の数少ないモテ要素は、聞き上手だからな〜〜」「だから無駄なこともペラペラ喋っちゃうじゃん」と、たわいもない会話の中で言われました。

 

よく考えれば私、リアクションが大きいんです。すごく。

感情が全て顔に出ちゃうし、笑い方も豪快だし…悪く言えばうるさいです(笑)

それに加え、相手の目を見て話を聞く・頷きながら話を聞くという癖もあります。この辺は確かに、昔から学校の先生に褒められてきました。

 

これらを統合してみると、確かに私は聞き上手かもしれない!と認識できました。

 

 

ではなぜ、今まで気づかなかったかというと、私は話し上手だと思ってたからです。

 

ブログも気づけば長くなっているので、お気づきかと思いますが、私、話すのが好きです。おしゃべりです。

「話がうまい」「話が面白い」ともよく言われてきました。

だから自然と、私は話し上手な人間なんだな〜と思っていたので、聞き上手にはなれないや〜〜と思っていたわけです。

 

 

その発想がおかしかったんですよね!

「話す」と「聞く」は全く別の動作。どちらかが上手かったらどちらかが下手じゃなきゃいけない、そんな二者択一なわけないんです。

確かに、英語のテストのspeakingとlistening、どちらも得意な人もいればどちらも苦手な人もいますもんね、そりゃそうですよね。

 

でも、なんとなく「話し上手派」「聞き上手派」に分かれる、という認識を持っている人は多いのではないでしょうか?

だから、もし私のように「自分は話し上手だとよく言われるから、聞き役には向いてない」と思っている方がいたら、話し上手という事実とは別に、聞くという能力について考えてみてほしいです。思わぬ発見があるかもしれません。

 

 

ただ、話し上手と聞き上手の両立を妨げるものがあります。

「たくさん話しすぎる」ことです。

 

話が好きな人・話がうまい人は、ついついたくさん話しすぎる傾向もあるかと思います。会話でそれをやってしまうと、聞き上手にはなれません。そもそも、自分が話すだけで、聞いてないんですから(笑)

 

私は昔から自分がおしゃべりだという自覚があったので、気づいた時には「自分ばかり話してないかな?話しすぎてないかな?」と注意しながら会話に参加するようになっていました。ほぼ無意識のうちにですが。

 

その心がけがないと、話し上手な人は聞き上手にはなれないのかもしれません。

まあ、話し上手・聞き上手に関係なく、会話での自分の発言の量には気をつけたいものですよね。会話泥棒にも。

 

 

ということで、今回は話し上手と聞き上手が両立し得るという、私にとっては驚きの発見をお伝えしてみました。

この経験から、他にも「両立しなさそう」「対立してそう」と思っていた事象同士が両立できることもあるのではないか、という視点を持って考えるようになりました!

これからもそんな発見をしていきたいです。

 

それでは!

人生は瞬発力

こんばんは。

さっき始めたばかりで、さっき1回目の投稿をしたばかりですが、今書いています。

そして、「こんにちは」ではなく「こんばんは」の時間だったと気づきました。

1回目は自己紹介で、特に内容が無かったので(内容が無いよう〜!)、ノーカウントでいいかなと思い、本日2回目の投稿です。(別に1日1回までとか決めてないんですけど、なんとなく言い訳をしてるのはなぜだろう…)

 

1回目の最後に、「とりあえずやってみます」と書きました。それで思い出したんです、書きたいこと。

私の今年のテーマは、タイトルの通り「人生は瞬発力」です。

これは陸上部員だった私なりの言葉で、普通の日本語に訳すと「とりあえず行動する」といった感じですかね。(初めからそう言え)

大学生活、に対して思うことは山のように、富士山のように、エベレストのようにあるわけですが、その1つとして、「何をしたらいいか、何をすべきか、がわからない」です。

やりたいことも、できることも、やるべきことも、いくらでもあるんです。

選択肢がありすぎて決められないこと、ありますよね。グランドメニューよりランチセットに限定されてた方が実は嬉しい時、ありますよね。そんなものです。

 

大学生になりそれを感じ続けてきた私は、気づいたら身動きが取れなくなっていました。

「あれをやってみたい…でもこれをやらなきゃ…どっちの方が優先順位高いかな…それを考えるためには、私は将来どうなりたいかが決まらないと…私はどうなりたいんだろう…それを見つけるためにもあれをやらなきゃ…」

これでも短縮バージョンですが、こんな感じで堂々巡りです。何周も何周も同じところを巡ってるから、走行距離はあるけど、実は一歩も前へ進んでいないのです。

(ちなみに、前へ進んでいないことが完全に悪いとは思っていない、必要な時もある、という話もいつかしたいと思っています。)

 

でも最近、「考えてたって何も変わらない、まずはやってみる」という発想に至りました。こんなセリフ、しょっちゅう聞きますよね。私だってずっと耳にはしてたはずなのに、なぜか従っていなかったんですよね。

そういうのって意外とあるとは思いますが。「頭では理解してたけど、心は納得してなかった。〇〇をきっかけに、本当の意味で理解できた。」みたいな。

私は最近多いんですけど、そのうちの1つです。

 

それで、今年は、「気になったことはとりあえずやってみよう」というスタンスで生きています。

 

同窓会で再会して盛り上がった高校時代の好きだった人に、「個人的に会おう」と自分から連絡しました。相手は会ってくれました。

 

新聞の投書欄に原稿を送ってみました。すぐに連絡がきて掲載されました。

 

なんとなく「ザ・大学生っぽいこと」に感じた、球場での売り子バイトに興味を持ち(全然キャラじゃないんですけど、笑)、応募しました。人並みには売れました。

 

気になった本は全部読もうと思い、「ブクログ」を利用して気になる本は全部登録し、購入しています。順調に読み進められます。

 

大きめの出来事としてはこれくらいです。

文にしてみると、自分で思ってたよりも「しょーもない」ことです。しょーーもない。

でも、意識しないと行動できなかったこと達です。それを理解しただけでも学びだと思ってます。たぶん私は完璧主義者な部分があり、完璧を目指してしまう。完璧にできなさそうならやらない方を選んでしまう、という気がします。そんなの、全然よくない、もったいない。

躊躇して、迷ってるうちにやめてしまうこと。迷ってるうちに機会を逃してしまうこと。意識しないと、そんなことが積み重なってしまうんだ、ということに気づきました。

 

1番実感したのは、「高校時代の好きだった人」の件ですかね(笑)

そんなに同窓会とかに熱心なクラスでもないので、「たぶんもう、何もしなかったら一生会わないんだろうな」と気づいたんです。だったら、失うものは何もない。

 

だって、

・誘わなかったら一生会えない。〈0〉

・誘ってみても断られたら一生会えない。でも一生会わないんだから、恥ずかしさも気まずさも何もない。〈0〉

・誘ってみてOKくれたら会える。〈100〉

(〈数字〉は私の効用、つまり嬉しさです)

 

結果がどうであれ、効用は0か100のどちらかで、マイナスになる選択肢は無かったんです!

それだったら挑戦してみたらいいんじゃないか。っとやっと思い至ったわけです。

 

この件は特殊だったから、マイナスの選択肢が無くて挑戦できたのかなって最初は思ったんですけど、他の案件でもよく考えてみると、マイナスになる選択肢って意外と少ないんです!

確かに、「初めの一歩を踏み出すか否か」ってところで迷ってるんですもんね、そりゃまだ踏み出してないんだから、戻りようがないって話ですよね。

 

 

ということです。

以上、私は「とりあえず行動してみる」ことをテーマに今年を生きています、それを「人生は瞬発力」と呼んでいます、というお話でした。

それでは!